奈良時代以前の古墳の解体から始まった平城宮、平城宮跡の歴史を箇条書きでカンタンにまとめました。奈良時代でもほかの都を使用していた時期もある中、大極殿はつくりかえられました。そのご人々からは忘れられていましたが明治時代を中心に棚田嘉十郎らの保存運動により現在はほぼ全面が保存されています。平城宮跡の古代そして現代の2つの歴史をご紹介します。
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▶平城宮の歴史は平城京ができる時から始まります。
●710年に奈良県橿原市の「藤原京」から「平城京」に都がうつる(遷都)。ここからが奈良時代です。
●唐の長安(現在の中国、西安)の都を参考にした街づくりで、京の北端に宮が置かれます。
●平城宮建設の際には、古墳の解体も行われた壮大な開発でありました。
▶8世紀・奈良時代での歴史をたどります。
●奈良時代はずっと、平城京が都だったわけではありません。
●都が、現在の京都府木津川市→大阪市→滋賀県甲賀市と移ったあと再び平城京に戻ります。
●平城京ができた当初の大極殿が「第一次」再び戻って来た後の大極殿が「第二次」です。
●現在の平城宮跡の整備では、二つの大極殿のどちらの遺構も表現されています。
●このほかにも、平城宮の各地で奈良時代を通して建物のつくりかえが行われています。
▶日本の歴史の変遷と共に、平城宮は田畑へと姿を変えます。
●奈良時代後期には、都が平城京から長岡京へ移され、そして平安京へ移されます。
●その後、再び平城京へ移す話もありましたが失敗に終わります。
●こうして、奈良時代は終わりを迎え平城宮は田畑などへと姿を変えていきます。
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▶田畑となった平城宮の跡地「平城宮跡」は保存運動が進むにつれ再び光が当てられます。
●「大黒の芝」という名称や、第二次朝堂院の基壇など名残として残るばかりで人々から忘れ去られていました。
●江戸時代末期から平城宮の研究が開始され、明治時代からは保存運動が始まりました。
●棚田嘉十郎を中心とした保存運動が行われました。棚田氏は私財をなげうった運動を行い、最期は自害してしまいます。
●こうした、たゆまぬ努力の結果、史跡に指定され本格的な研究が始まります。
平城宮いざない館の前にある「棚田嘉十郎像」。この保存運動がなければ今の平城宮跡はなかったかもしれない。
▶現代へと続く研究と復原の歴史が始まります。
●現在の「奈良文化財研究所」が中心となった発掘調査が始まりました。
●その過程で、「平城宮」であったと考えられる場所が、どんどん広がっていきました。
●発掘調査や研究の結果は、平城宮跡各地の展示施設で発表されています。
●また、結果を基にして奈良時代の建物を復元しています。
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▶平城宮跡はこれからも歴史を刻み続けていきます。
●2010年平城京ができて1300年を記念して「平城遷都1300年祭」が開催
●現在は、国土交通省と奈良県の事業として、公園整備が続いています。
●第一次大極殿周辺では、「大極門」、東西の楼や回廊の復元事業がすすめられ、昔の姿がよみがえりつつあります。
\公園利用はできます/ |
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